まだ全部の人外に対峙したわけではない。
なのに本のオビを見たらまるで「完結編」を思わせる。
え?まさかだよね?だって……
【聖剣アルスルと傷の王】のあらすじ
英雄アルスルの評判を聞きつけた六災の王──地動王が眷属をつかわした。
「王の病をいやすことができたなら、かつて地下域の城郭都市・エンブラからうばった『花の大図書館』を与えよう」
大図書館を奪還すべく南域に向かったアルスルをまち受けていたのは、長城オーロラ・ウォールと、人狼と恐れられるアスク公爵だった。
なにもかもを思いどおりに動かそうとするアスク公爵に手間どり、地動王との取引に向かう作戦会議もひらけないまま。
そんなアルスルたちを、死に瀕した地動王が襲う。
災害に見舞われたオーロラ・ウォール。落ちていった者たちともども閉じられてしまった「花の大図書館」
アルスルの背負う大剣も禍々しさをあらわにするようになり、この交渉・争いにかかわるすべての人を巻き込むこととなった。
アルスルも成長、物語も成長、今作のキモは
3作目とあって読みやすかった。

アルスルの世界観がわかってきたのかしら?
本のオビに書かれた「おまえが眷属を統べる者となれ」が成長のキモなのかと、さとうはようやく理解したわけで。
ついに英雄と呼ばれるところまできたアルスルだが、ぽやっとしたところはまだなくなってないみたい。
でも人外類似スコア持ちだから、別方向にするどいものは持っている。
そしてまえのふたつの作品で走訃王、隕星王をしたがえはじめたから、なにがしかのチカラも手にしている。
状況に振りまわされるだけではなく。
しかし自分のかかえる要素に惑わされもし。
チカラを持つ存在として行動することでアルスルは成長する。



やっぱりね、行動は大事よ
そして物語も、その構造と人物たちについて世界を広げて見せる。
アルスルやルカの頭のなかに展開されるものが、ほかの人々にも理解されたり浸透したりしていく。



それはアルスルが行動して、理屈も結果も見せるからかも
……とか考えると、「完結編か?」と思っちゃうのも無理はない。
……でも、さぁ?
人外の件
今作まで読むと、人外が一方的な立場に置かれているだけではないということは、わかってきた。
でも。
アスク公爵のような人間が実際の社会にもいることはわかっているが、人外のあつかいに対するさとうの「もやっと」が消えることはなかった。
自分でも意外だったが、もしアスク公爵がただの人間だったら、もやっとがなくなっていたかもしれない。
人間って、ほら、バカな人もいるじゃない。



そんなことは言わないほうがいいんじゃない?
特権とか特殊能力を手に入れたとき、自分がすごい人になったようなのカンチガイをする人とかいるよね。
アスク公爵は子どものころの事件で自分がただの人間ではなくなってしまったことを理解していたのに、チカラづくでほかの者を従えようとするところがあった。
「理解がある」のと、「それを行動としてあらわせる」のはちがう。
もちろん考えた末の行動ではあっただろうね。
でもさー、カタキをとるみたいに強権発動の日常を続けていたことに、意味はあったのかな?
人外に対して人間が未熟な接しかたをしているところが「もやっと」していたさとう。
人外とわかりあえる要素を身のうちに抱えているアスク公爵が、領民である人間だけでなく自分のためにはたらく人外にも強権を振るっていたことがさとうにとっての「もやっと」だった。



なんだろなぁ。むつかしいねぇ
これはなにもこのシリーズ・この作品にかぎったことではない。
ファンタジーには、人間ではない種族がいろいろと出てくる。
でも物語を書いているのが人間なので、結局は人間と人間ではない者たちとの軋轢をはさんだストーリー展開となる。



「軋轢(あつれき)」とは、車輪がきしる音のように、争いが生じて仲が悪くなること、つまり、人々や組織の間に摩擦や葛藤、不和が生じる状態を意味します
たがいの立場が対等なうえでの軋轢だったら物語のスパイスになるけど、ファンタジーではむつかしいのかな。
さとうがこの本を読んだ理由
第1作目から読んでるので、おもしろいシリーズは全部読む。
今回、文庫本にはじめて著者の「あとがき」が書かれてた。そのせいもあって「完結か?」と思われた読者もいたのかな。
でもまだ終わりにはしないでほしい。
前2作の記事はこちら。
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