【ハーモニー】人間とロボットのあいだには何がある?

あなたは人間か?

あなたは自分がサイボーグではないと断言できるか?またはアンドロイドではないと断言できるか?

あなたは、なにをもって自分が人間であると証明するか?

生物を定義するって、意外に大変らしい。

目次

【ハーモニー】のあらすじ

21世紀後半に〈大災禍〉という大混乱が起きたのち、人類にはWatchMeという恒常的な体内監視システムの医療分子群を装着することとなった。

病気はなくなりみんなは健康、やさしさや倫理があふれてプライバシーなどもつ必要のない穏やかな社会が広がる。

だが、そんな見せかけに飽きている3人の少女が自殺を試みて………

13年後、死ねなかった少女だったトァンは、ヒタヒタと世界にはびこる暗い陰にただひとりあのとき死んだはずの友人の影を見た。

この世界はユートピアなのか。

もっというなら人間とサイボーグのちがいって何だろう?

私たちはいま、ペースメーカーを埋め込んだり、人工内耳を埋め込んだり、眼内コンタクトレンズを埋め込んだり、人工関節を埋め込んだりして、日常生活の不便をおぎないながらふつうに暮らしている。

でも、私たちは自分のことを「人間」だと自覚している。

技術の発達が人間を助けることはおおいに賛成だし、ていどの差はあっても誰もが恩恵に浴している。

できればもっと発達して、ハンディキャップなんかたいした差ではないという世の中になればいいと思っている。

しかし!

科学的な定義では、人工物を体内に埋め込んでいるとその人は、大きなくくりで「サイボーグ」に分類される。

さとう

アナタハニンゲンデスカ?サイボーグデスカ?アンドロイドデスカ?

将来、この話の主人公が生きているような認証だらけの世の中になり、いちいち自分が何者であるかを公にしなければならないシステムに組み込まれたとき、私たちは自分のことを自分で正確に伝えることができるかな?

この話の世界はすでに「ニンゲン」の数がおそろしく少なくなっているような気がする。

先進諸国のほぼすべてで、成人するとWatchMeという個人用医療薬精製システムにひもづく端末をカラダに入れる、ことになっているのがこの本の世界。

SFでは、人間のカラダにいろいろなシステムをインストールして活躍する話がたくさんある。ストーリー上、彼ら彼女らは人間として役割を持っている。

でも実際にナノマシンがものすごく発達して、誰にでもふつうの診療で「健康管理のために」カラダに入れられるようになったら、入れるさね?

そうしたら人間あるいは人間社会は、進化したことになるの?

それとも観察や判断の能力をいちぶ機械にあけわたしているから、退化してるのかしら?

あなたは人間でいることを選ぶ?サイボーグでも構わないと思う?

この話はそういう一面もある。

さとう

分子生物学っていう学問的にいうと、生命体はミクロなパーツからなる精巧なプラモデルっていえるらしいよ

生物の定義とか、さとうの発言とかがちょっと気になるって人は、以下の本を見て。引用してるから。

サイボーグとアンドロイドに意識はあるのか?

さて、この話にはもうひとつ、だいじなテーマがある。

それは、意識について、考えなくちゃならないこと。

意識、ってなにかね?

一般的には「覚醒している状態」「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態」のことをさすらしい。

でも、哲学ではどんな状態を意識と定義するか、延々と論議されている。

心理学や精神分析学では、問題行動を解決するためにいろいろな分類をして多角的にとらえようとしている。

医学では、脳のはたらきにリンクさせて状態を判断している。

認知科学や人工知能の分野では、「人間が人工知能に質問などをして、その人工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか」とアラン・チューリングが提案した。(Wikipediaより引用)

さとう

ちなみにアラン・チューリングは人工知能の父と呼ばれるイギリスのコンピュータ科学者です

意識って言葉はふだんなにげなく使ってるけど(意識高い系?とかね)意識がなんであるかを説明してよ、って聞かれたらさとうは説明できない。

でも、この話は、自分を自分だって意識するのはどういうことだろうってとこから始まっている。

そして最後も、意識の問題に戻って終結している。

すべてが終わったあとの世界に存在するのは、人間なのかな?

サイボーグはいうなれば「改造人間」アンドロイドは「人造人間」だと説明する人もいるけれど、だとすればサイボーグは基本ニンゲンで意識がある存在だよね。

でもアラン・チューリングの提案を良しとすると、アンドロイドもまた意識を持ってるから時と場合によってはニンゲンの範疇に入れてもいいかもね?ってことになる。

考えても、意識ってなんなのか、説明できない。

たとえば以前紹介した「タフの方舟」という本の「守護者」って話に出てくる壺牡蠣は、一人の意識が全体につながっている設定だった。この場合、意識は一つの大きな集合体なのかな。個々にも独自にあるのかな。

また、20世紀SFを代表するポーランドの作家スタニスワフ・レムの名作「ソラリスの陽のもとに」では、惑星に存在する海が唯一の知的生命体で、軌道上に浮かぶステーションのニンゲンたちにおかしな影響を与える。この海も、意識の塊なのかしら。一つか、一人かわからないけど。

とにかく、この話はする〜っと読めるんだけど、じつは自分の存在意義について考えてしまうんだね。

コミュニケーション、という形は残るのか?

この話の世界に住んでいるのがニンゲンであろうがサイボーグであろうが、意識の問題が大きな一つの塊を思わせる状態のとき、そこに本当の意味でのコミュニケーションは存在するのだろうか、と思いながら読み終えた。

たとえ身体や生活環境のように実体としてカタチになっているものではないとしても、「意識」のような自分に属するもののいちぶを勝手に他人に使われたりその世界の内部をのぞかれたりするのはイヤ、っていう人はこの話を読んだほうがいい。

コミュニケーションについて、方法や方向を選べるんだな、ということがわかるから。

コミュニケーションが取れる、という時点で、その存在は生き物であると考えていいとさとうは思っている。

だからさとうにとって、サイボーグもアンドロイドも「生きている」と考えるね。

コミュニケーションが取れるってことは、意識がある、思考がある、感情の類いがあるってことだと思うから。

逆に、この話の世界のようになってしまったら、ニンゲンは生きているっていっていいのかな?

コミュニケーション能力って、かんたんに身につくものではないなと考えさせられる。

さとうがこの本を読んだ理由

そりゃあ、話題の本だったから。

そしてパラパラっと見た感じ、興味を引く内容だわと思ったから。

やっぱりね、少女たちが自殺のむつかしい環境で自殺を試みる、自殺しそこねる、その後成長してどう生きるの?ってすごく考えさせられるじゃないの。

それに、虐殺器官も読んでたからどうしてもこっちも読みたいって思った。命を削って作品を書いた著者の考えを知りたかったし。

さとう

読んでよかったわ

むりやり健康的で公正な生活を強いられる世界で生きていくのはどんなに苦しいことか。

この本はそんな社会をしめし、息苦しいいまの世界で生きていく私たちを高みから見下ろして記述しているようにも思える。

人間に必要なものは、やっぱり適度なゆとりとか少々グレーな部分とかだな。

ユートピアっていうのは、明解で公正で健康で前向きで発展的な社会、と区切れるわけではない。

境界線の幅を考えられる成熟した人格が増えてほしい。

そうなれば争いも起きにくいだろうし、起きてもほどよい解決がむかえられるんじゃないかな。

というわけで、対のような話になる本もついでに紹介する。

追記:本の表紙って……

話題の本はいろいろなバージョンが出版される。

さとうの持っていた本は

なんの飾りもないシンプルなもの。

でも今となっては手に入れられない。

まあ、表紙のバージョンで話の中身が変わるわけではないので、ご安心ください。

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この記事を書いた人

昭和生まれ。なのでリアルな顔写真はご勘弁を。
オタクという言葉がなかったころからSFを読んでいます。
オタクのはしくれなので読んだ本を紹介します。

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