人間とロボットのあいだには何がある?

あなたは自分がサイボーグではないと断言できますか?またはアンドロイドではないと断言できますか?

あなたは、何をもって自分が人間であると証明しますか?

生物を定義するって、意外に大変らしい。

もっと言うなら人間とサイボーグの違いって何だろう?

私たちは今、ペースメーカーを埋め込んだり、人工内耳を埋め込んだり、眼内コンタクトレンズを埋め込んだり、人工関節を埋め込んだりして、日常生活の不便を補いながら普通に暮らしている。

でも、私達は自分のことを「人間」だと自覚している。

技術の発達が人間を助けることは大いに賛成だし、程度の差はあっても誰もが恩恵に浴している。

できればもっと発達して、ハンディキャップなんか大した差ではないという世の中になればいいと思っている。

しかし!

科学的な定義では、人工物を体内に埋め込んでいるとその人は、大きなくくりで「サイボーグ」に分類される。

「アナタハニンゲンデスカ?サイボーグデスカ?アンドロイドデスカ?」

将来、この話の主人公が生きているような認証だらけの世の中になり、いちいち自分が何者であるかを公にしなければならないシステムに組み込まれたとき、私たちは自分のことを自分で正確に伝えることができるかな?

この話の世界はすでに「ニンゲン」の数が恐ろしく少なくなっているような気がする。

先進諸国のほぼすべてで、成人するとWatchMeという個人用医療薬精製システムに紐づく端末をカラダに入れる、ことになっているのがこの本の世界。

SFでは、人間のカラダにいろいろなシステムをインストールして活躍する話がたくさんある。ストーリー上、彼ら彼女らは人間として役割を持っている。

でもさ、実際にナノマシンがものすごく発達して、誰にでも普通の診療で「健康管理のために」カラダに入れられるようになったら、入れるさね?

そうしたら人間あるいは人間社会は、進化したことになるの?

それとも観察や判断の能力を一部、機械に明け渡しているから、退化してるのかしら?

あなたは人間でいることを選びますか?サイボーグでも構わないと思いますか?

この話はそういう一面もあるのよね。

さとう
分子生物学っていう学問的に言うと、生命体はミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、って言えるらしいよ

生物の定義とか、さとうの発言とかがちょっと気になるって人は、以下の本を見てみてね。引用してるから。

サイボーグとアンドロイドの違いは何?

さて、この話にはもう一つ、大事なテーマが隠されて、も、いないか、とにかくテーマがあるんです。

それは、意識について、考えなくちゃならないこと。

意識、ってなんですかね?

一般的には「覚醒している状態」「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態」のことを指すらしい。

でも、哲学ではどんな状態を意識と定義するか、延々と論議されている。

心理学や精神分析学では、問題行動を解決するためにいろいろな分類をして多角的に捉えようとしている。

医学では、脳の働きにリンクさせて状態を判断している。

認知科学や人工知能の分野では、「人間が人工知能に質問などをして、その人工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか」とアラン・チューリングが提案した。(Wikipediaより引用)

さとう
ちなみにアラン・チューリングは人工知能の父と呼ばれるイギリスのコンピュータ科学者です

意識って言葉はふだん何げなく使っちゃってるけど(意識高い系?とかね)意識がなんであるかを説明してよ、って聞かれたら私は説明できないんだね。

でも、この話は、自分を自分だって意識するのはどういうことだろうってとこから始まっている。

そして最後も、意識の問題に戻って終結している。

すべてが終わった後の世界に存在するのは、人間なのかな?

サイボーグは言うなれば「改造人間」アンドロイドは「人造人間」だと説明する人もいるけれど、だとすればサイボーグは基本ニンゲンで意識がある存在だよね。

でもアラン・チューリングの提案を良しとすると、アンドロイドもまた意識を持ってるから時と場合によってはニンゲンの範疇に入れてもいいかもね?ってことになる。

考えても、意識って何なのか、説明できない。

例えば以前紹介した「タフの方舟」という本の「守護者」って話に出てくる壺牡蠣さんは、一人の意識が全体につながっている設定だった。この場合、意識は一つの大きな集合体なのかな。個々にも独自にあるのかな。

また、20世紀SFを代表するポーランドの作家スタニスワフ・レムの名作「ソラリスの陽のもとに」では、惑星に存在する海が唯一の知的生命体で、軌道上に浮かぶステーションのニンゲンたちにおかしな影響を与える。この海も、意識の塊なのかしら。一つか、一人かわからないけど。

とにかくね、この話はする〜っと読めるんだけど、実は自分の存在意義について考えちゃうんです。

コミュニケーション、という形は残るのか?

この話の世界に住んでいるのがニンゲンであろうがサイボーグであろうが、意識の問題が大きな一つの塊を思わせる状態のとき、そこに本当の意味でのコミュニケーションは存在するのだろうか、と思いながら私は読み終えました。

たとえ身体や生活環境のように実体として形になってないものだとしても、自分に属するものの一部を勝手に他人に使われたりその世界の内部を覗かれたりするのは嫌、っていう人はこの話を読んだ方がいい。

コミュニケーションについて、方法や方向を選べるんだな、ということがわかるから。

コミュニケーションが取れる、という時点で、その存在は生き物であると考えていいとさとうは思ってます。

だからさとうにとって、サイボーグもアンドロイドも「生きている」と考えます。

コミュニケーションが取れるってことは、意識がある、思考がある、感情の類いがあるってことだと思うからね。

逆に、この話の世界のようになってしまったら、ニンゲンは生きているって言っていいのかな?

コミュニケーション能力って、本当は簡単に身につくものではないなと考えさせられるよ。

まとめ:本の紹介

むりやり健康的で公正な生活を強いられる世界で生きていくのはどんなに苦しいかを示すこの本は、息苦しい今の世界で生きていく私たちを高みから見下ろして記述しているようにも思えます。

人間に必要なものは、やっぱり適度なゆとりとか少々グレーな部分とかだなと思っちゃうよね。

ユートピアっていうのは、明解で公正で健康で前向きで発展的な社会、と区切れるわけではない。

境界線の幅を考えられる成熟した人格が増えれば、争いも起きにくいだろうし、起きてもほどよい解決が迎えられるんじゃないかな。

というわけで、対のような話になる本もついでに紹介するわ。

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