これはかつて“猫”とよばれた人間の物語。
4種の話はそれぞれに味わいがちがうが、結局は”猫”の話。
人生を考えるにはよいキッカケの話だ。
【一人で歩いていった猫】のあらすじ
ここでいう“猫”は四つ脚の小型獣ではなく、猫形態の人間のこと。
一人で歩いていった猫
“諸神の贈り物”号に乗り合わせた異星人6人は、惑星間評議委員会の決定にもとづき、オリオン腕のソル系第三惑星に流刑となる。地球人を遠い祖先にもつ“猫”はさまざまな困難に遭いながらも“折衝者”とともに地球の現状に沿わざるを得ない。
やがて事情を理解した“猫”はみずから“種蒔き人”となり、つねに共生していた翼をおいて一人で歩いていった。
アムビヴァレンスの秋
惑星アムビヴァレンスにて。季節が人の生理に影響をあたえる星で、秋をむかえると三人一組の夫婦から生殖に関係しない無性人間の“第三(サード)”が追い払われて別れを告げる。
冬がくるとサードは他星系人のために店を開く。機狂い(キチガイ)で感応者、そばにいる人工知能がすべておかしくなる才能をもつタツミは今年も結婚せず、母親がわりのイサドラとジナリスのふたりと人生を楽しもうとするが、季節はそれを許さなかった。
リヴィング・インサイド・ユア・ラヴ
シノハラ・コンツェルンの総元締めが、自分の係累にたいして影響力をふるう世界。やがて自分の感知してなかったところで事件が起き、解決に向かって騒然としていく。
だが、キーとなる「われなべ」と「とじぶた」に接触するとき、事態は大きく変わる。
親殺し
かつて祖先がおなじ船名の宇宙船でやってきたこの星を、“私”は出ていく。親でもあり先祖でもある人格付与コンピューターとふたりきりで。
航宙の途中で修理を必要とする宇宙船にであい、乗組員と意気投合する。だが、彼の話を聞いているうちに史実がくいちがうことに気づき、彼との間にふたつの世界がはさまっていることを知った。“私”はどうすればよいのか。
自分の世界をもっているって強い
私たちは、小学生のころからいろんなカタチで文章を書いてきた。
書くことが嫌いじゃなくて、頭のなかに自分の世界がある人は、書くのがめっちゃ早い。
宿題の作文だったり、読書感想文だったり、グループ作業の発表文だったり。
とにかく、文章を書くことについて自分なりの方法や考えかたがある人はサクサクっと書く。
事務的に書くものであってもそうなんだから、創作においては、自分なりの方法や考えかたがあるってすごく強いよね。
うらやましい。
大原まり子の書くものには個性がはっきりと出ていて、初めから終わりまで、世界観がブレてない。
頭のなかに自分の思い描く世界そのものがきちんとできあがっている。
だからその世界のなかでさまざまなストーリーを展開しても、基本のにおいは変わらない。
いやまあ、創作活動をしているかたたちは、みんなそうなんだけど。
だから作品が売れて、ファンがついて、活躍が続くんだと思うけど。
どんなカテゴリでも、自分の世界をもっているって、生きていくときの強みだ。
SF作家、が活躍してほしい
ふるい考えから抜け出たい
さとうの持ってる本は、例によってふるい。
なんと昭和57年(1982年)発行!
しかも表紙絵が何回かかわっている。
いかにふるい作品かってことね
で、解説には中島梓氏。
ここで中島氏は「日本に《女流SF作家》はいるのでしょうか。」と書きはじめている。
そうそう、こんなことをわざわざ書かなくちゃならないほど、女性のSF作家はすくなかった。
もう令和だからね、さとうはわざわざ「女流」とつける必要はないと考えている。
だって、「女流」何々、って呼ぶってことは、本来男がするのがスタンダードな仕事・役職と考えているってことになる。
それ、おかしくない?
SFを読んでいると、技術や知識、目につくガジェットの新旧に、つい気をとられる。
ガジェットとは、ちょっとしたしかけや小道具のこと
でも根本的な、常識と思われている考えかたにも「どして?」って思うようなふるいものが残っている。
ゆがみなく新しい時代の考えかたにふれて、自分をアップデートしたいな。
自分で自分をいやす方法はある
今回のブログタイトルの「独自の世界観をもつことが自分を救う」は、決してひとりよがりな世界観をもてということではない。
自分の世界観を他人に押しつけよう、強制的にわからせようということでもないの。
いまの世の中が生きづらいとしても、自分の頭のなかで考える世界は他人の基準に合わせなくても大丈夫だよ、って言いたいの。
もちろんそれは、現実化できるかはわからない。
さらに現実的にカタチにしたいなら、他人への権利の尊重や思いやりを忘れてはいけない。
けれど。
いろんな大変なことや辛いことがあっても、結局、自分を救えるのは自分なのよ。
他人の権利を侵害しない、他人にやつあたりをしない、そんなあたりまえなことを守ったうえで、自分がここちよいと思う価値観の世界で想像したりそのことを作品にしてみたりする。
独自の世界観のなかで、自分で自分をいやすんだね。
自分を救うのは、究極、自分だ。それは自分の価値観や世界観を肯定することでできる。
だからいっぱい考えて、自分のなかでストーリーを作りあげるのがいい。
そしてそれを他人にもわかってもらおうとするなら、SF小説の形で発表するのがいちばん手っ取り早いし、害がない。
と、さとうは思ってる
絵が得意ならマンガでもいいよ。映像が得意なら動画でもいい。
なんでただの小説ではなく、SF小説の形での発表をオススメするのか。
それはどんな荒唐無稽なおかしな世界観でもストーリーとして成り立たせることができるから。
さとうは「女流」という言いかたが好きではない。
いまだに男女に大きな差がある社会が腹立たしい。
だから、ルグィンじゃないけど、男女平等にならざるを得ない両性社会を、よく妄想する。
妄想は自分を救うの。
フィクションはノンフィクションから生まれる
大原まりこの本を読んでいるとね、時代のせいもあると思うんだけど「ああ、男性作家ならこうは書かないよな」「こういう視点は持たないかもな」って思う部分が出てくる。
現実はそうかんたんに変化はしないけど、ぜったい変化しないわけでもない。
だからみんな、自分の世界をもち、それをフィクションの形でオモテに出すといいんだ。
きっかけを作ることで、人も世界も変わるだろうから。
フィクションって「たかがフィクションだろ?」って思われがちだけど、書いているのは現実の人間だ。
だからかならず、現実世界での考えかたや状況が、影響している。
そんなに軽いものではないのよ。
そのフィクションや世界観が共感を呼ぶのは、ヒトマネではない本物が出てきたとき。
「あっ、これ、わかるっ」「あー、私の考えてることと似てる〜」
そういう感じのするオリジナルなものにふれたとき、人は感動する。
それって、自分の正直に感じたり考えたりしたものが作品に出てるときなのよ。
ネットの時代だから、まねはすぐにバレるじゃないの。
さとうは、ネットで2次創作の作品をいろいろ読んでみたので、妄想したらみんな書けばいいのよっ!ってずーっと思っている。
そして自分が好きだから、みんなSFチックな話を書けばいいのよって思っている。
とにかく、独特な世界観のSFがどんどん出てほしいわ。
さとうがこの本を読んだ理由
まえにも書いたが、中島梓氏が推しているというので、この作家さんの本を読もうと思った。
しかもタイトルに「猫」って言葉がはいっていたし。
猫は好きなの
それが未来の宇宙で活躍してるのかしら?なんて想像すると、ロマンチックな気分になる。
しかもパラパラっと見たら、解説を中島氏が書いていた。
遠い未来の、広い宇宙で、人間と人間型生物と宇宙人が、まるで地球上の現在のさまざまな問題を再現するかのような争いやかけひきをおこなっている4つの話。
バラ色でもなくディストピアでもなく、美しくもハードな大原まり子ワールド。
今はやりのジェットコースター的スピード感はないが、ストーリーとしてはよい。
今はやりの「読みやすさ」「わかりやすさ」は人によってだいぶちがいがある。でもさとうは本来のSFってこういう要素があるよなって思った。
そもそもストーリー的に読みやすければよい作品、とは考えてないしね
みなさんには楽しんでほしいね。
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