SFを嫌いの一言でくくらないで欲しい

さて、好き嫌いについて思うことを話してみよう。

ちなみに「好き嫌い」というのは感情というか、情緒である。

だから本当はこれといって理由がわからないことも多い。

そういう現実的なことをふまえてさとうの意見を言ってみる。

目次

好きと嫌いってどのくらい違うの?

日常でよく使うからあらためて考えたことがないんだけど、「好き」と「嫌い」はいったい何が違うんだろう?

よく言われるのが「好きの反対は嫌いではなく、無関心」ということ。

たしかに「嫌い」を公言している人は嫌いなものについてくわしい。

雑誌やブログを読むと、興味のないさとうなんかが驚くほどくわしい。

どうして嫌いなのにそんなにくわしいのだろうと驚くほどくわしい。

さとう

これって、おもしろいね

むかしむかし、読売ジャイアンツがものすごく強くて日本シリーズ9連覇なんてことをしていた時期がある。

その前々から「アンチ巨人ファン」という人たちが存在していて、テレビの街頭インタビューで物申しておられた。

「アンチ巨人ファン」というからには読売ジャイアンツが嫌いな人たちであろうとテレビを見ていた子どものころには思ったものだ。

しかしインタビューに語る内容はジャイアンツの試合運びのあれこれ、ジャイアンツの選手の走攻守についてのあれこれ、ジャイアンツの監督の采配についてのあれこれ、とまあ、ジャイアンツについてのことばかり。

なんで嫌いなチームの試合についてそんなにくわしいんだろうと不思議に思っていた。

心理学の分野では、好きと嫌いは向いている方向がちがうだけで、「関心がある・興味がある」という同じエネルギーのかかるグループの心の動きらしい。

だから反対にくるのは「関心がない・興味がない」というグループらしい。

結局、好きも嫌いも量としてはけっこうエネルギーを使っているんだね。

「嫌い」を公言しているアンチの人が対象についてくわしいのはそういうわけだったんだ。

好き嫌いが多いとちょっと損する?

さとうが子どものころは、食べ物に好き嫌いがあることはちょっと恥ずかしいことだった。

給食の時間は先生に「好き嫌いせずになんでも食べましょう」と指導されるし、親も「残さないで食べて」としつけた。

いまでも基本的に大きくは変わらない。

ただ「個人の事情を考慮しない教育ってどうなの?」を問われる時代になった。

個性を尊重される教育体制になって、つまり自由にふるまえる範囲が大きくなって食べ物の好き嫌いを話してもとがめられない時代になってきた。

食物アレルギーの問題もあるから、他人も「全部食べろ」と強制しなくなってきた。

さとう

ちょっとは楽になってきたのかもね

「好き嫌い」で検索すると、まずはじめに食べ物の好き嫌いの情報が出てくる。子どもが野菜を食べないとか、好き嫌いがあるのは悪いことなのかとか。

次に人づきあいについて。嫌いな人とどうやって付き合っていけばいいのか、とか。人づきあいは苦手なので克服したい、とか。

変わったところでは「アニメが好きでない理由」について投稿されているかたとか、「クラシックは聴くけどモーツァルトが苦手」とおっしゃるかたとかがいる。

最初に書いたとおり、好き嫌いは感情・情緒なので良し悪しはない。本人が自覚してて他人に迷惑をかけていなければ、何らかまわない。

好きな人から見れば「もったいない。楽しいのにな」と思うだけ。

好きな人から見れば「ちょっと損してるじゃん?」って思うだけで誰も困らない。

ただたくさん検索すると、「なぜ好き嫌いが多い子は成績が上がらないのか」という学習塾の意見や、「人事はどこまで知っているのか」という本で「人事は好き嫌いで決まるのか?」などの記事も見受けられた。

逆に仕事の場では「好き嫌い」が再評価されている。

就活する人に「自己分析に頼るより好き・嫌いからはじめよう」と問いかける記事もある。

さとうがいつも思っていることは、好きなものなら苦労も我慢できる、ということ。

このブログだって、

  • 記事の構成を考えなきゃいけない(おしゃべりみたいみダラダラ言いたいことだけ書いても誰も読んでくれない)
  • 調べなきゃいけない(デタラメは書けない)
  • 写真やイラストを工夫しなきゃいけない(文字だけって読みづらいし、なのに画像関係の操作は超苦手だし)

と、さとうには大変な作業だ。

でも、SF小説をオススメするためならちょこっとがんばってみようかなと努力するわけで。

さとう

ほんと、コンピュータとか、めっちゃ素人だから。今までも見るだけの人だった。絵も描けないし

でも、「嫌い」とか「苦手」とか思うのは自由だけれど、試してもみないで距離をおくってのは何かを少し損してるんじゃないかな。

知り合いにいわゆる「食わず嫌い」の人がいた。

トマトは生じゃないと食べないとか肉のスープは嫌いとかレンコンは好きじゃないとか鶏肉は昔ニワトリを絞めた場面を見たことがあるから嫌だとか、とにかく嫌いなものが多くて。

そのくせ食べることは大好きで。

でも病気をして入院してから、とりあえずひと口は食べてみることにしたらしい。

そうしたら今までこだわっていたもののほとんどが「なんだ、美味しいね」という感想。

トマトなんか、火を通したものは絶対イヤって頑強に拒んでいたのに、ピッツァを食べたら「あら、けっこう甘いわ」

さとう

だ〜か〜ら〜、ずうっとそう言ってたじゃん!

………というわけで、「好き」が多いぶんにはあまり不利益はないだろう。

けど「嫌い」が多いとおいしいものを食べそこなったり、おもしろい人と知りあえなかったり、楽しいものを見そこねたりと、損をすることもある。

だからといって、無理に好きになることはないんだけど。

嫌いなのはSF「小説」なのか?

「嫌い」はできれば少ないほうが、人生は疲れないだろうなと思っている。

それで、SFが嫌いって言ってる人は、SF「小説」が嫌いなのかな?

こんな投稿がWEBにはある。

  • 「SFオタクっていかにもオタクのステレオタイプらしく全方位を見下すくせにちょっと世間にはやっているものがあるとやたら『こういうのSF的』とかってかぶせてくるよね」
  • 「SF者が声高に語る『あれはSFかそうでないか』だけが苦手です……」
  • 「SFって『自意識』が強いなあ、と思ってしまう。『私、どうして嫌われるのかな?』と常に悩んでいるセンシティブな女子中学生のような」
  • 「SFが嫌いというよりSFオタが嫌いって人は多いかと」

それからもう半世紀も前にアメリカの出版界にこんな意見もあった。

  • 「(アメリカ出版界においてSFは小さな存在でしかない。なぜか。それは)SFは読者に、思索的でイマジナティブな精神的共同作業を要求する。そしてこれは、大半のエンタテイメントを求める読者には重すぎる負担なのだ。良いSFを怠惰な心で読むことはできないからだ」

なんていうか、一部の人の「上から目線」や「圧の高い発言」はそもそもSFを世間に送りだしてきた側からも昔から無意識ながらあったのかな。

そんなつもりで言ったわけじゃないだろうけど、時代の先をいく科学や発想を俺たちは知ってるぜ、みたいな自負心が、隠しても出ちゃう人はいる。

でもそれって、SFに限らずだよね?

ひとつのジャンルの中で、わかりやすく説明してくれる人もいれば「こんなことも知らないの?ジョーシキじゃん」っていう人もいる。

好き嫌いは感情・情緒で、良し悪しとは別のものだ。

人はそこをごっちゃにして論争をするけれど、もう少し楽しく生きていけたらいいのになと思うよ。

嫌いなのはSF小説なのか、それとも一部の人のこころよくない態度なのか。果たして正解は?

さとう

って大げさだなぁ

ここに、さとうはこんな立ち位置だろうなと賛同できる意見を引用しておく。

少なくともドラえもんが苦手でなければ「SFが苦手」じゃなくて「苦手なSFがある」でいいのでは。SF好きな人にだって苦手な作品はある。苦手なものの量というか割合は違うだろうけど。

(togetter.com「SFが苦手な理由まとめ」#sfnigateより引用)

SFが苦手だと思っている皆さん、SFをひとくくりにして「苦手だ」「嫌いだ」と思わずに、小説のおもしろさを楽しんでほしい。

「SFを読んでみよう」で話したようにSF小説の中にはいろんなカテゴリーがあっておもしろいものがある。

「これ、SFだったの?」なんて思う話もいっぱいある。

せめて「嫌いじゃないかも」くらいで

「SFを嫌いの一言でくくらないで欲しいのまとめ

まとめてみるとこんなこと。

  • 好きと嫌いは、関心があるという点で同じグループの感情・情緒、でも向いている方向が違う。
  • 「嫌い」が多いとちょっと損するかもしれない。
  • 「嫌い」なものの正体は何だろうと立ち止まってみる。

何でもひとくくりにして評価するのは危ないからね。

せめて「SFが嫌い」ではなく「嫌いなSF(的なモノ)がある」と考えてくれるといいな。

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この記事を書いた人

昭和生まれ。なのでリアルな顔写真はご勘弁を。
オタクという言葉がなかったころからSFを読んでいます。
オタクのはしくれなので読んだ本を紹介します。

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