リアルを予感させるディストピア小説として名高いこの話。
「男性絶対優位の近未来社会」とオビに書かれてたけど、「なーに言ってんだぁ、こら」と嘲笑いたくなる気分だった。
どうしてか、わかる?
【侍女の物語】のあらすじ
文庫の裏表紙をそのまま紹介。
ギレアデ共和国の侍女オブフレッドの役目はただひとつ、配属先の邸宅の主である司令官の子を産むことだ。
しかし彼女は夫と幼い娘と暮らしていた時代、仕事や財産を持っていた昔を忘れることができない。
監視と処刑の恐怖に怯えながら逃亡の道を探る彼女の生活に、ある日、光がさしこむが……
「なーに言ってんだぁ、こら」は腹立ちを含む嗤い
ひさびさに、口汚くののしりたい気分だ。
こんな気分は「超・金持ちのジジイにムカついた話」の記事以来。
まずね、「男性絶対優位の近未来社会」
有史以来、女性が優位に立てた社会など、ひとつもない、一度もない。
古代だろうと近代だろうと。
さとうはこのことに腹が立っている。
それからこの本をひとことで紹介するなら「わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない」と主人公が語る話、だ。
今まで何度も、日本の政治家や企業トップが女性を「子を産む道具」的な発言で口を滑らせ、マスコミに叩かれている。
だが、若い世代でも「叩かれるような場所では言わない」だけで、意識は改革されてない男が多いことに変わりない。
そこにさとうはイライラする。
読めばわかるけど、「男性優位」とはいっても結局優位なのはある種のジジイだけ。
そしてそいつらは建前上は許されない「身分の高い人間だけが利用しているという娼館」を利用したり「一冊残らず破棄されたと思われていたファッション雑誌」を隠し持っていたりする。
そういう二面性を恥ずかしげもなく楽しむジジイが、いかにもしかたなく建前を維持する。
その醜さにさとうはうんざりする。
いちばんイヤになるのは、この話がただのフィクションではないことだ。
「ボヘミヤの海岸線」というブログにこういう記述がある。
本書がつらいのは、こうした心理描写が、ナチス収容所の記録、独裁政権下に生きた人々の記録、心理学の研究による報告とほぼ同じということだ。『侍女の物語』はかなり現実に似せて書かれており(実際アトウッドは「『侍女の物語』で私が想像したものはない」と言っている)、読む者は「徹底的な抑圧」による不安と恐怖と閉塞感を疑似体験することになる。
特に女性は、幾重にも抑制を課されている自覚があるから、ほんとうにイヤになる。
さとうこういった抑圧や差別は、現実の世の中で男女が逆の立場になったら男に理解してもらえるのかしら?



女性側の憤りを男にわかってもらえている気が、しないからね



なーに言ってんだぁ、こら、って言ってみる?
産む側が優位なのは生物の理(ことわり)
Googleで「いきもの メスがオスを選ぶ」と検索すると、AIがこんなまとめを提示する。
AI による概要
動物の世界では、メスがオスを選ぶ「配偶者選択」は、繁殖に有利なオスを選ぶための自然な仕組みです。メスは卵を産み、子育てをするため、オスに比べて生殖にかかるコストが大きいため、オスを慎重に選ぶのです。この選択の結果、クジャクの美しい羽根など、メスにアピールするための派手な特徴や求愛行動がオスの進化を促してきました。
メスがオスを選ぶ理由
・繁殖コストの違い: オスが精子を提供するだけの役割であるのに対し、メスは卵を産み、子を育てるという大きなコストと労力を負担します。そのため、質の低いオスと交尾することはメスにとって大きな不利益となります。
・優良な遺伝子の獲得: メスは、自分の子孫に有利な遺伝子を持つオスを選ぶことで、子孫の生存や繁殖能力を高めようとします。これは「性淘汰」の一種です。
メスがオスを選ぶ例
・クジャク: メスは、より鮮やかで大きな尾羽を持つオスを選ぶ傾向があります。これは、メスにアピールするための特徴として進化しました。
・ハクセンシオマネキ: 大きなハサミを振って求愛ダンスをします。巣穴にいるときは声を出してアピールすることもあります。
・ヒメイカ: メスは、交尾後にオスが気に入らない場合、こっそりと精子を捨てることがあります。これは「隠れたメスの配偶者選択」と呼ばれています。
・魚類: 婚姻色(鮮やかな体色)を持つオスは、病気に強い健康なオスであることを示していると考えられ、メスがそうしたオスを選ぶことがあります。
注意点
・すべての動物がメスがオスを選ぶわけではありません。
・オスが子育てをする種では、オスが相手を選ぶ方が慎重になることもあります。
・オス同士が戦って繁殖権を得る「同性間競争」も、メスをめぐる争いの一種です。
すべてではないが、多くの生物でメスがオスを選ぶ。それにはそれなりの理由がある。
(すべてではないので「選ばれない」と悲観しなくてもよいし、強いオスだけが選ばれるわけでもないことを学者は研究して確かめている)
ただ、身を削って子孫を残す側に選択権があるのは当然だろう。
人間は小賢しい生き物なので、すぐに自分の権利を主張する。
権利の裏側には(紙のウラオモテのように)義務もついていることを、忘れるくせにね。
人間の出産は、医療が発達した現代でさえ命がけだ。
女性の身体にはとてつもない負担がかかっている。
妊娠したときから負担はあるのだ。
見た目だけで判断している男性(と一部のお産の軽かった女性たち)は正しくは理解できてない。
女性は子どもを産む道具ではない。
子どもを産むことのできる人間だ。
そこを履き違えているヤツは「おまえは道具から生み出されたナニカなんだな」と言われて反論はできない。



あなたを産んでくれた母親は、人間なんでしょ?



女が子を産む道具なら、あなたの母親も道具ってことになっちゃうよ?



それって自分を産んでくれた母親に対して、リスペクトがないよねぇ



道具から生み出されるものは、モノだよ



そう考えると、やはり産むことのできる側が主導権を持つのは当然だわ
さとうがこの本を読んだ理由
実はこの本も1986年に書かれたもので(邦訳は1990年)日本はバブルに翻弄されていた。
この本は話題になったが、テーマがテーマだけに「私は今は読まないわ。影響を受けてしまいそうで」とかいう知り合いもいた。
とりあえずいろいろ読みたいものがあったので、さとうはこの本も後回しにした。ってか、後回しにしてたことも忘れてた。
けれども、国営放送 Eテレ「100分deフェミニズム」で取り上げててさ、思い出したのよ。
※フェミニズム、という言葉にアレルギーっぽく反応はしないでね。正しく理解して。
思い出したので本を買いに行った。著者について調べてから本屋に行ったが、驚いたことに2019年になって、続編ともいえる本を出していた。
だから両方とも紹介する。
この本は「リアルを予感させるディストピア小説として名高い」と紹介したけど、実はすでに予感ではなくなっている事実を知ろうわかろうとする人に、ぜひ読んでほしい。
追伸:さらにむつかしい問題、それは宗教
独裁とか、支配とか、そういう物語にはかならず宗教の話が絡んでいる。
多かれ少なかれ、権力側はそれを利用している。
宗教には独自の教義があって、それがまた権力側の「ものの言い方」でどうにでも使えるからなんだね。
そして「宗教です」と大々的に理屈をかかげられると、大衆は恐怖からしたがってしまう。
さとうは宗教については語れない。
だって七五三は神社、葬式は寺、クリスマスは楽しむ派なのでね。まあまあ日本人に多いタイプ。
さとうは親もそんなタイプだったので、宗教問題で困ることはなかった。恵まれていた。
だからさとうにとって宗教は「電車のつり革」っていう感じのもの。
常識的なマナーを守るとか、困ったときに心の支えにするとか、自分の心のなかで自分を規定するものね。
他人には強制しない。
だから強烈な一神教や新興宗教は、理解できない。
優れた小説には、どこかしら宗教についての供述がある。
だから本を読むときは、注意して。よく考えて。それが大事よ。













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