なぜゲームでなぜ子供なのか

恐るべき宇宙人の侵攻を2度もかろうじて撃退した地球人たち。来るであろう3度目に備えるべく、バトルスクールを設立し、優秀な司令官を得るために天才児を探し、育て、苛酷なカリキュラムへと追い立てる。

実はそんな状況がもう始まっている、としたらどうする?

目次

ゲーセンで流行っているゲームを見た

ゲーセンなんておばさんには縁遠いところなんだけど、たまたま機会があって覗いてみたのよ。

そしたら今さ「◯と◯のパラドクス」とかいう椅子が宇宙船の操縦席になっているゲームが流行ってたのを見たの。

さとう

さとうはゲームはしないんだけど

プレイしている人とゲームを眺めてさ、「はあぁ、ここからエンダーのゲームが始まっていくんだな」って考えちゃった。

っていうかすでに、アメリカでは若い軍人に攻撃の操作を教えるときに使い慣れているだろうということでゲーム用のコントローラーと同じ形のものを使用してるって言うよ。

若い人は(特に幼い子どもは)おもしろいもの、興味を持ったものにはどんどんのめり込んでいって、いわゆる大人の先入観や固定観念なんかぶっ飛ばすような新しい、奇抜な、大どんでん返し的発想を次々生み出すこと、あるよね。

子供のころからゲーセンでゲームをしている人たちって、反射神経も動体視力も画面の中をどう攻略するかを考える能力も、さとうたちとは全然違う。

新人類、って言葉がバブル時代ののちょっと前に流行ったけど、今こそ新しい人類は出現しているって思った。

ゲームと子供、恐るべし

偉そうにしてるけど、大人が子供に勝てない部分こそ、これからは大事な要素になっていくのかもしれない。

もちろん、大人な考えや大人な態度が社会を支えていることは前提だけど。

人生はあらゆる意味でbattle fieldなのか?

主人公のエンダーは(本名はアンドルーなんだけど)本来なら存在し得ない第3子なのね。それというのも兄と姉があまりにも優秀だったから、両親は3人目を産んでも良いと許可をもらえたの。

もうそれだけで、この話の世界設定がなんとな〜くわかっちゃう。

そして生まれたエンダーは、兄より姉より優秀だろうということで、バトルスクールへ連れていかれる。

そこから先はずうっっっっっと、エンダーにとってbattle fieldを行くしかない状況なんだな。何をやってもやらなくても、エンダーに希望はない。必ず理不尽なルール改正が課せられて、それを乗り越えることを要請される。強制的に。

さとうが子供だった時代はまだ、まわりにいる同級生がライバルになるなんて、特別な状況でしかあり得なかった。受験とか、コンテストとか。

子ども時代は子どもらしく、先のこともまわりのことも何にも考えなくてよくって、好きなだけ自分の興味の向くことに没頭できた。

今の時代、子供たちは生まれたらもう習いごとを始めなくちゃならない。
伝統芸能を職業とする家系に生まれた男の子のように、ね。

あなたは自由な子供時代を過ごしましたか?

この話は、そんな簡単な疑問さえはさまる余地のない展開になっていく。

さとう

それって、辛いな

可能性に賭けたい、それが希望に繋がるから

ほかのサイトのレビューなどでこの話のネタはバレているけど、ここではそこには触れない。だって、知りたくない人もいるかもしれないからね。

それよりも、この話は子どもを苛酷な状況に追いやる話のように読まれるけど、実はこの世界にはちゃんとした大人が少しはいることが前提になっているんだな。まあ、当たり前なんだけど。

ちゃんとした大人っていうのは、いざ事に当たって必要ならきちんと責任を取る人のことを言うのね。

人数は多くはないのだろうけど、自分の人生をかけて取るべき行動を取る人がいてこそ、エンダーたちは救われる。そしてまた、この話も成り立つ。

で、なぜゲームでなぜ子供なのか。

それは(数少ない大人がきちんと責任を取るから)可能性をたくさん持っている子供に問題解決という結果を出して欲しい、そして人類に希望を与えて欲しいという願いなんだと思う。

これは現実ではなく、虚構の話。でも、先見の明がある大人がいればありうる話だ。

さとう

できれば現実にはなって欲しくないねぇ

ちなみにさとうがこの本を買った理由

ほんとは短編を読んだときに「これはアイデア勝負の話だろ。長編はウザいな」とか思ってたの。

でも、本屋でチラ見したら、エンダーがどういう子ども時代(って、話の中ではずっと子どもなんだけどね)を過ごしてきたのかな、ということが見えてきて。

それからバトルについても深くくわしくなっていて。

そしてバトルスクールでのいじめに近い出来事にエンダーが対処していくシーンがチラ見で読めて。

そうなってくると、これは本腰入れて読むしかないなとなったわけね。

まとめ:本の紹介

さとうが読んだ本は古い文庫で、1987年発行のもの。何度か表紙が変わって、2013年には訳者も変わって、今に至る。

みんなのレビューでは旧訳は読みにくいと不評だったが、それしか読んでないさとうには違いがわからない。

でもみんなが読むなら新訳がよいと言ってるので、わざわざ古本を探してこなくてもよい。

ただ、さとうは早く新訳を読まねば。本の紹介をしていて新しいのを読んでないってのはまずいよ。

この話は映画化もされているが、映画になるって聞いた時「今ごろ、やっとかよ」と思ったものだった。

まあ本と映画と、どっちが先でも構わない気がするね。

オースン・スコット・カード(著)

⬆︎これは旧訳の表紙。でもさとうが持っていたのはこれ⬇︎

めっちゃ古い。おそらく、長編になってはじめての刊行だね。よく見ると、ボロボロになってる。

短編で発表された時は「無伴奏ソナタ」に収録されていた。

今、新訳となって世に出ているのはこっちです⬇︎ 読むのならこっちでどうぞ。
話の運び自体は変わらないから。

追記

新訳・新刊で読みましたっ。めっさめさ読みやすっ。上・下巻2冊なのにあっという間に読めた。

新刊は字も大きくて、老眼にやさしい。だから読みやすかったのかな?

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この記事を書いた人

昭和生まれ。なのでリアルな顔写真はご勘弁を。
オタクという言葉がなかったころからSFを読んでいます。
オタクのはしくれなので読んだ本を紹介します。

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